4月18日
誕生日はそれとなく過ぎ、最近は小忙しく働く日々。主にパウロとネリカ米についてである。
兎に角よく働き、学んだことをよく覚えてる人だ。
ウガンダから仲良くなった分、感情的に対応してしまうこともあるが、そこそこにいい関係が築けているかなと思う。
そんなパウロと今日は仕事後マシシへ行き、所用を済ませた後KFCへ。冗談で誕生日の話をしたら奢ってくれた。彼も多くは貰っていないはずで、それだけに彼の心意気と、同僚として距離が縮まっていっていることを実感し、とても嬉しかった。
また自身のポル語レベルを確認するため、彼に歴代のボランティアと比較して自分はどうか?と質問した。単純に聞きたかったし、回答を学ぶ栄養としたかったが、彼は比較はしたくないと言った。それでも詳細な話ができるようになりたい、あと一年だから現状のレベルを教えてくれとしつこく聞いた。
少しして彼は「詳細に物事を話すのは外国人にとって簡単ではないよ。今までどのボランティアも凄く上手になったが、詳細に話をできる人はいなかったよ」
どこまでやれるだろうか。マダガスカル旅行後、余暇の時間にダレ気味であった姿勢が少し伸びる。
養蜂研修場も展開する兆しが見え、改めて日々を大切にしていかなければと身を引き締めた。
4月2日
エイプリルフールは嘘もなくガザ州のみんなに誕生日サプライズもしてもらい楽しく終了。3ヶ月に一度メンバーが変わっていく協力隊の儚さを感じつつターミネーターを観ながら眠りにつく。
そして久しぶりにモロンベーニに帰ってきましたー今月はがしがし働くぞー。
3月31日
今日で今年度が終わる。一昨日マダガスカルからモザンビークへ帰ってきて、ダラッと今日まで過ごした。
良い年度の終わりになるはずなのに、自分の気持ちは何か靄が掛かっている。普段手にもしない本を取り、東野圭吾さんのレイクサイドを読んだからだろうか。
理由は1つではないが、思いやりとはなにか、自分は優しくないのか、と思う。
ひさびさにまなと電話をすることになっているが「仕事」に妨げられまだできていない。
バオバブの夕日はとても美しく壮大だったが、今見ると物憂いように見える。
3月16日
今日からマプト。月曜日からほぼ何もできないまま、旅行へ旅立ってしまった。
気持ち良く出発できなかったぶん、しっかり楽しみ、また任地へ帰りたいと思う。
ひさびさに同期や264の隊次のみんなに会い、人は恋愛をはじめ、人は名残惜しさを噛み締め、人は仲間を先に送り闘い続ける。
思い思いの人生が途切れることなく進んでいる事を改めて噛み締めた僕は、検便の便と格闘した末に敗北し明日へ闘いを延期する。
3月14日
<103歳になってわかったこと>
人は、用だけを済ませて生きていくと、真実を見落としてしまいます。
真実は皮膜の間にある、という近松門左衛門の言葉のように、求めているところにはありません。しかし、どこかにあります。
雑談や衝動買いなど、無駄なことを無駄だと思わないほうがいいと思っています。
無駄にこそ、次のなにかが兆(きざ)しています。
用を足しているときは、目的を遂行することに気をとられていますから、兆しには気がつかないものです。
無駄はとても大事です。
無駄が多くならなければ、だめです。
お金にしても、要るものだけを買っているのでは、お金は生きてきません。
安いから買っておこうというのとも違います。
無駄遣いというのは、値段が高い安いということではなく、なんとなく買ってしまう行為です。
なんでこんなものを買ってしまったのだろうと、ふと、あとで思ってしまうことです。
しかし、無駄はあとで生きてくることがあります。
私は、3万円だと思って買ったバッグが30万円だったことがありました。
ゼロを一つ見落としていたのです。
レジで値段を告げられて驚きましたが、いい買い物をしたと思っています。
何十年来とそのバッグを使っています。
そして、買ってしばらくしてから、そのバッグの会社オーナーが私の作品を居間に飾っていることを雑誌で知って、あらお互いさまね、と思いました。
時間でもお金でも、用だけをきっちり済ませる人生は、1+1=2の人生です。
無駄のある人生は、1+1を10にも20にもすることができます。
私の日々も、無駄の中にうずもれているようなものです。
毎日、毎日、紙を無駄にして描いています。
時間も無駄にしています。
しかし、それは無駄だったのではないかもしれません。
最初から完成形の絵なんて描けませんから、どの時間が無駄で、どの時間が無駄ではなかったのか、分けることはできません。
なにも意識せず無為にしていた時間が、生きているのかもしれません。
つまらないものを買ってしまった。
ああ無駄遣いをしてしまった。
そういうときは、私は後悔しないようにしています。
無駄はよくなる必然だと思っています。
もし仮に、無駄のまったくない人生を生きてきた人がいたとしたらどうだろう。
やることなすことすべてうまくいき、日の当たる場所や、近道だけを選び、効率的で全く無駄のなかった人生。
もしいたとすればの話だが、およそつまらない人間がそこに存在していることになる。
人は、寄り道をしたり、道草をくったり、どん底を味わったり、失敗や嫌な目に遭うという、人生の無駄を経験するからこそ、人としての味や深みが出る。
「人生の余白」ともいうべき、人としての遊びや余韻の魅力だ。
「無用の用」という老子の言葉がある。
一見すると役に立たないようなことが、実は大きな役割を果たしているということ。
無駄のある人生も、時にいいものだ。
ー美術家の篠田桃紅(とうこう)さん。
著書「103歳になってわかったこと」は現在ベストセラー。年齢にとらわれず、「毎日が新しい」と日々創作活動に打ち込む姿が多くの人々を魅了する
3月6日
養蜂研修初日、ジルドゥ安定の5時半モーニングコールで目を覚ます。
早いよ!モザン人朝早過ぎ!
E Bom dia como está?
G N¥$# bem.
E Aqui também.
G Não não estou bem.
E Porque? O que é que aconteceu?
G O meu irmão faleceu...
眠気眼で定型の挨拶を交わしたが、兄弟が亡くなり調子はあんまりよと。
朝から訃報を受け、なんとも言えない気分を味わい、二度寝に。
朝から晩まで疲れたなぁ。
早く明るい笑顔が彼に戻りますように。
3月2日
あまり寝れない中、朝5時半にジルドゥのモーニングコールで目を覚ます。早いわまじで。
マタカラーニ、ムングゥアンビを訪問し昼過ぎに帰宅。とにかく疲れた。
下手したら死ぬわこんな橋!
帰りはこの橋を渡りたくないのでジルドゥに違う道を教えてもらい一緒に帰ったがそちらも崩壊している道だったので、途上国を大満喫。
少し寝て、目を覚まして、まなと真面目な話をし、仲直り。
そんな1日。サラブレッドのような子山羊はきっとお星様のようになるのだろう。