3月14日

<103歳になってわかったこと>

人は、用だけを済ませて生きていくと、真実を見落としてしまいます。

真実は皮膜の間にある、という近松門左衛門の言葉のように、求めているところにはありません。しかし、どこかにあります。

雑談や衝動買いなど、無駄なことを無駄だと思わないほうがいいと思っています。

無駄にこそ、次のなにかが兆(きざ)しています。

用を足しているときは、目的を遂行することに気をとられていますから、兆しには気がつかないものです。

無駄はとても大事です。

無駄が多くならなければ、だめです。

お金にしても、要るものだけを買っているのでは、お金は生きてきません。

安いから買っておこうというのとも違います。

無駄遣いというのは、値段が高い安いということではなく、なんとなく買ってしまう行為です。

なんでこんなものを買ってしまったのだろうと、ふと、あとで思ってしまうことです。

しかし、無駄はあとで生きてくることがあります。

私は、3万円だと思って買ったバッグが30万円だったことがありました。

ゼロを一つ見落としていたのです。

レジで値段を告げられて驚きましたが、いい買い物をしたと思っています。

何十年来とそのバッグを使っています。

そして、買ってしばらくしてから、そのバッグの会社オーナーが私の作品を居間に飾っていることを雑誌で知って、あらお互いさまね、と思いました。

時間でもお金でも、用だけをきっちり済ませる人生は、1+1=2の人生です。

無駄のある人生は、1+1を10にも20にもすることができます。

私の日々も、無駄の中にうずもれているようなものです。

毎日、毎日、紙を無駄にして描いています。

時間も無駄にしています。

しかし、それは無駄だったのではないかもしれません。

最初から完成形の絵なんて描けませんから、どの時間が無駄で、どの時間が無駄ではなかったのか、分けることはできません。

なにも意識せず無為にしていた時間が、生きているのかもしれません。

つまらないものを買ってしまった。

ああ無駄遣いをしてしまった。

そういうときは、私は後悔しないようにしています。

無駄はよくなる必然だと思っています。

もし仮に、無駄のまったくない人生を生きてきた人がいたとしたらどうだろう。

やることなすことすべてうまくいき、日の当たる場所や、近道だけを選び、効率的で全く無駄のなかった人生。

もしいたとすればの話だが、およそつまらない人間がそこに存在していることになる。

人は、寄り道をしたり、道草をくったり、どん底を味わったり、失敗や嫌な目に遭うという、人生の無駄を経験するからこそ、人としての味や深みが出る。

「人生の余白」ともいうべき、人としての遊びや余韻の魅力だ。

「無用の用」という老子の言葉がある。

一見すると役に立たないようなことが、実は大きな役割を果たしているということ。

無駄のある人生も、時にいいものだ。

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ー美術家の篠田桃紅(とうこう)さん。
著書「103歳になってわかったこと」は現在ベストセラー。年齢にとらわれず、「毎日が新しい」と日々創作活動に打ち込む姿が多くの人々を魅了する

 


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